バーリトゥード日記

バーリトゥード日記

ジェントルアーツ名古屋ブラジリアン柔術クラブ(NBJC)代表早川正城の日記です。
(題字:一ノ瀬芳翠)

カテゴリ : 柔術・武術・格闘技

若い頃のこと。とある店で飲んでいると、たまたま居合わせた客同士が口論となり、表に出ろみたいな展開。お店のママが仲裁に行く。私もママが気になり付き添って外へ。二人の口論は止まず。ママが止めに入ると一方が(軽く)押し退けた。するとママは大袈裟に「あれぇぇぇ〜っ」と声をあげて路上に倒れこむ。時代劇で乱暴された奥方みたいなリアクション(笑)。立ち上がると再び止めに入りやはり(軽く)押し退けられては同じように「あらぁぁぁ〜っ」と倒れこむママ。その様がおかしくってたまらない私。笑いをこらえていると揉めてる二人も吹き出してしまった。これでおしまい。争いをぶつかり合うことなく止めたママは見事だった。

もう一つ。矢場町交差点でやったイベント「ヤバ強ー」。中国武術、抜刀道、書道、そしてグラップリングツアーのプレ大会が集い、演武、表演、試合を行なった。書家の一ノ瀬先生には大書きを披露していただいた。その準備で先生が大書きしていると不審な輩が寄ってきた。ちょっと注意するぐらいでは聞き入れそうな風体ではない。私はどこで排除しようとタイミングを見計らっていた。観客の前でやるのはまずい。・・・以前、もちの木広場で行われたイベントで似たような状況になり、口頭注意すると悪態をついてきやがったので人目につかないテレビ塔の裏まで引きずっていって制◯を加えようとしたところを(偶然)私の母親に見つかって、こっ酷く叱られた苦い思い出がよぎる(ノ_<)。先生が一枚の大書きを仕上げた。さあ、と思って見ると、その不審な輩は笑顔で拍手しているではないか。先生の書の力が心を開かせたのだろう。強制的に排除しようとした私が恥ずかしくなった。

Fighting without fighting。まさに戦わずして戦う流儀だった^ ^。

武術として「争わない」のは単純に逃げることではないと思う。

過去、ある武術師範に全盛期のミルコやヒョードルと戦ってはどうですかと切り出しお叱りを受けた。

私は武術師範の技術は本物だと信じている。でも、ミルコやヒョードルとぶっ倒し合いをして欲しいわけではない。先(せん)を制し彼らの攻撃をストップさせれば武術師範の勝ちだ。武術師範にはそれができると考えた上での提案だった。

がっぷり四つのガチガチのぶつかり合いだけが格闘ではない、争いを回避するのも立派な格闘だと思っている。

システマ創始者ミカエル師範と接して確信に至った。

格闘技として争いを楽しみ、武術として争わないのも楽しむ。私の目指す柔術はここ。


目下、マイブームのヴラディミア・ザイコフスキー、システマ師範の教則V。

人体コントロールは骨格構造の物理的操作プラス意識による。この意識の部分をインターナルと称し、アプローチするための様々なエクササイズを紹介している。

ザイコフスキー師範のVは三本目だ。最新作も取り寄せたが、さらに出発点を知りたいので過去に遡っている。

私の柔術研究も分析の方向性が明確になってきた。
・競技として「争う」
・武術として「争わない」
・骨格構造による力学的作用
・意識、心理面の身体に与える影響
この四点になろう。これらは別々に存在するのではなく相関関係であり、同じものを視点を変えただけともいえる。

合気道の植芝師範や塩田師範は「争わない」と意識面を重視していったのかもしれない。

ヴラディミア・ザイコフスキー
2015-06-26


人体の骨格構造のコントロールが柔術なのかなと思っていたが、人体には意識が伴う。

同じ人間でも無抵抗な時と逆上している時のコントロールは同じではない。

システマなど様々な学びから多くのヒントを得て術理をあれこれ試していて、ふと思った次第。

例えばこちらが感情的になって荒っぽく仕掛けたらパートナーも応じて荒っぽくなってくる。不快な情報を与え続けられて気分が良くなるはずもない(笑)。

裏を返すとラフな相手もソフトにできるかもね^ ^b

備忘録として。

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