バーリトゥード日記

バーリトゥード日記

ジェントルアーツ名古屋ブラジリアン柔術クラブ(NBJC)代表早川正城の日記です。
(題字:一ノ瀬芳翠)

カテゴリ : 柔術・武術・格闘技

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「必要とあらばすぐに打てるよう常に心の準備をしておくべきだ。躊躇はない。必要なら打つとすでに決めているのだから。

「攻撃的になれ」「緊張していろ」という意味ではない。

単に心の準備をしておくだけだ。ある意味冷淡でなければならない。一筋縄では行きそうにない相手には「話し合いもできるが、打つべき理由があれば打つ」という覚悟を持つ。

そうすると不思議なことに争いになりにくい。

体のぶつかり合いになったらそれで良い。受け入れることが安全への鍵となる。そして冷淡な態度を保ちながらも、あまり強く打ちすぎないように訓練するのが大切だ。

相手をストップさせるために打つだけだ。

それが相手を打つための最初の準備である。相手を止める目的で打つ。不能にするまで打ってはならない。その気持ちは心に閉まっておく」

「口論の場でも同じだ。

その最中でも戦う準備は常にしておく。そういう状況が来たら受け入れるのだ。ぶつかり合いにならなければハッピーだ。ファイトなどない方が良い。

しかし心の準備はしておく。

準備ができていればファイトを受け入れられる。受け入れることだ。どんな時でも何があっても、いつでもファイトの準備ができているという自覚を持つことだ。ファイトになってもオーケーだ、と。

心の準備ができていれば、色々なシナリオを基に芝居ができる。それ以上エスカレートしないように、おどけてみたり、怒りを表したり、謝ってみたり、何でもありだ。しかし内側ではファイトの準備をしておく。

そういう決意を常に持っているべきだ。

決意できない人も中にはいる。武術の訓練を重ねているのだろうが、その決意がまだ固まっていないのだ。おそらくぶつかり合いの経験が乏しいのかもしれない。決意をすることに慎重になっている。

例えば、銃を撃つ心の準備ができていないのに銃の訓練をするだろうか。

狂ったように辺り構わず撃つということではない。撃つ覚悟があるということだ。素手のファイトでは相手からパンチを食らう覚悟がなければならない。それが最初の決意である」

「恐怖が消えた時、痛みも消える。

恐怖心がなくなると痛みも和らぐのだ。痛みを怖がるのが最悪である。加えて、人々が抱える恐怖心は面子を失いたくないというエゴから生まれる。

新しい精神状態を作らねばならない。

ある時、それほど強くはないがファイトが上手な男に会った。どうしてファイトするのかと尋ねると、よく聞け、俺は臆病者だからだと言った。失うものが何もないから戦うのは簡単なことさ、と。

しかし彼は自分の恐怖心を認めたのだ。

失うものがない時、何が起こっても大きな問題ではない。彼は実に注意深く、緻密に、効率よく戦った。怖がっていたが、そういう自分も承知していた。自分を良く理解していたのだ。ファイトを始めるのもオーケー。相手から逃げることも躊躇ない。後ずさりしたりその場から逃げたりして離れたところで相手を待ち受けるなど、何をするのも全く問題ない。

人によっては、何だ臆病なヤツめ。逃げたな、などと揶揄するだろうが、彼は人がどう見るかなど全く気にしない。その姿勢が彼を巧みなファイターにさせたのだ。彼にとっては全てが仕事をするツールにしか過ぎない」

「ファイトを受け入れる決意をしたとしよう。

打つ、打たれる覚悟ができた。それは心理的、感情的な覚悟であるが、身体的な準備でもある。腕で打つつもりなら、何度か腕の筋肉を緊張させたり緩めたりして腕の血流を良くする。ハートや魂、感情の話をしているのではない。もっと基本的なことだ。

何で打つ。手を使うなら、手をそのように準備する。銃を使うなら弾丸を詰め、セーフティーを外し、トリガーガードに指を入れる。銃も手にせず撃つぞと言ったところで何の意味もない。「銃はどこにある?」「分からないけれど、撃つ準備はできている」とはあまりにも滑稽だ。銃に届かないのであれば、銃を持っていないのと同然だ。

銃を持っている人は誤った操作をしない。銃が必要な時に、彼らはすでに銃を手にしている。銃は腰にかけてあるが必要時に恐怖と緊張とで銃を取り出せないとしたら、それは銃を持っていることにはならないのだ」

「ファイトを受け入れる準備をしよう。

相手を殺す、傷つけるという準備ではない。いつでもファイトを受け入れられる心の準備ができていれば、後退しようが前進しようがどうでも良いことだ」

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伊藤先生と練習。

ヒクソンベースをきっかけに、この二、三週間で様々な術理への理解が一気に進んだ。伊藤先生に師事は2001年で、これまでなにをやってたの感も否めないものの(笑)、その分、蓄積がある。これからはさらに加速する。

今宵も重心、間合い、死角などなど超ボリュームでみっちり。

太極拳再入門は都合で次回。ここもようやくスタートラインにつけた。

あとは練習して、前に進むだけ^_^♪

PS.頭が拓くってこのことかもね(笑)

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【THE WAY OF GENTLE ARTS】



1. Gentle ≠ 弱さ、Arts ≠ 技術だけ


Gentleとは、力を持った者が選ぶ、意志あるやさしさ。

Artsとは、勝敗を超えて生き様を映す静かな表現。


Gentle Artsは、力を誇示せず、媚びず、

内に“静かな誇り”を宿した強さの表現である。



2. Way – 道とは、型ではなく流儀


道は、形式でも理論でもない。


瞬間ごとの調和をまとった在り方を選び続ける姿勢である。

それは「守るべき型」ではなく、

型を超えてひらくための骨子であり、流儀である。


Gentle Arts Wayは、継承される「生き方の指針」である。



3. 調和と誇りを両立させる道


Gentle Artsは、他者と自分、両方の尊厳を守る術。

力を誇示せず、媚びず、

内に誇りを湛えた“やさしい強さ”を表現する道。


それは勝利のためではなく、

自らを裏切らないために存在する技。



4. 共鳴から生まれる術


技は対話であり、響き合いである。

相手とのつながりの中でこそ、

関係性の中で深まり、育まれる芸術。



5. 初心で在り続けることが、道を深める


なにかをはじめるのに、夢中になることを見つけるのに、遅すぎることはない。


Gentle Arts Wayは、スタートラインに立つ人、スタートラインに立ち返る人たちと共に歩む


その一歩が、すでに道である。


その一歩には、勇気を試されるかもしれない。


だからこそ、なによりも尊い、その一歩にエールを送ろう。



この道は、まだ始まったばかり」

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極意はまつ毛の先とはよく言ったもので、理合や技術の理解が一気に深まった今、実感する。

ヒントはすぐ近くにある。近すぎて見落としてるものって他にもたくさんあるよね。


さあ、これから旅がはじまる^ ^

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「理論的には」

1、触るだけで崩すことができる。触覚情報操作。重力にバランスを取って姿勢を維持しているだけなので、実はふらふらしている。いかにこちらが「支えにならないか」。

2、「間」と「間合い」のコントロール。視覚情報操作から、触れる前に崩すことも可能。これを「意識」と捉えることもできる。「先を制する」、「先を取る」など。



私が認識できる武術格闘技の頂上。遥か彼方だが、そこに確実に存在する・・・はず(笑)

現在地点一合目。

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YouTubeなどで有名な田村装備開発の愛知出張訓練に参加してきました^ ^

四時間みっちりの内容。はじめに立ち姿勢の作り方。呼吸操作などて上体を一体化。脚はそれに従う。「かめはめ波」も登場(笑)。息を吐く「かめはめ波」と吸う「かめはめ波」。吸う方はおそらく中国武術的「暗勁」?!。身体の中に波の干渉のような衝撃。上体の操作でこんな簡単に打てるとは目からウロコ♪

以下、備忘録として。

1、【護身術】
・前提として強力な武器を持つ方が強い。ナイフ<銃。
・「緊急避難」について
誰かが暴漢に襲われている。そこから逃げても「緊急避難」として罰せられない。襲われているのが身内であっても二人より一人の犠牲で済ませられるとの解釈もできる。ナイフはそれほど強力な武器。対応には覚悟を要する。

2、【対ナイフの練習】
ナイフを構えた受けに、歩いて近寄り、攻撃してくるのを捌く。近寄ることで先手を取り、受けを後手にさせる。

「構え合うと恐れが出て勝負は付かぬ。対すればスッと出て行く。敵は切りかかるかあるいは何らかの動作を起こさざるをえない。そこでそれに乗じて勝ちを得る」(by佐川幸義)

暴漢に近づいたらクリンチし、スペースをなくす。スペースをなくせばちくちく刺されても傷は1〜2cm程度。身体でも腕でもがっちりクリンチして離さない。もし、刺されてしまってもクリンチし続ける。

「出るだけでもよい。刀でも出れば致命傷にならない。まず出ることを学ぶ」同)

実はナイフファイティングを学びたかったのだが、これはこれでとても勉強になった。

最後に。

3、【安全管理と危機管理の違い】
安全管理とは定められたルールや取決めを守ること。危機管理とはルールや取決めのない、もしくは越えてくる状態への対応を指す。

あまりに安全管理を徹底しまうと、危機管理能力が退化する。教育においても子どもたち安全を強調すると危機管理能力を削いでしまう。

究極的に護身とは、危機管理能力が退化しないように日頃からの心がけ次第となる。

余談だが、日本国の安全管理は行き届いているかもしれないが、危機管理能力はどうだろう。

護身も狭義と広義を真剣に考える時代になった。

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末筆ながら、講師の長田先生、そして参加者のみなさんに感謝いたします。ありがとうございました^ ^

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以前、若手がパートナーたちのケガを厭わない練習スタイルだったので咎めると


「早川さん、格闘技なのにケガさせてなにが悪いんですか?!」

これに的確に、厳密に答えられるだろうか。

格闘技の本質はパートナーの身体を攻撃目標にしているからだ。

私は深く悩んだ時期があった。そこで思い出したのがヒクソングレイシーの「ジェントルアーツ」という言葉。

さらにシステマの「破壊の否定」だった。

以来、「ジェントルアーツ」を標榜し、練習で痛めつける行為を禁止した。

練習相手はエネミーではない、パートナーなのだ。

もちろん荒っぽい練習を否定しない。そんな練習も状況によっては必要だからだ。

私たちはそれをしない。入会希望者にはちゃんと伝えて、ハードな練習希望ならほかの環境を勧めている。

ちなみに痛めつけないとはコントロールに必要以上に力を加えないことと考えている。

ただし、私もすべてを理解するには程遠く、パートナーたちより、たまたま道の先を歩いているに過ぎず、永遠の学生であるのは変わりない。

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