カテゴリ : 書籍
落合陽一X落合信彦 予言された世界
合気道修行/塩田剛三
アントニオ猪木 最強の美学/Number
俺が戦った真に強かった男/天龍源一郎
普遍の法則

「武道の原点とは「武術」である」
「武術の原点とは「型」である」
「「型の原点」とは、実戦のなかから生まれた「普遍の法則」を持った技の集大成」
「武術は使えるかどうかが鍵。使える保証のないものは武術の型とは言えません。使える裏付けがあるからこそ、型を極めることが武術を極めることでもあると言える」(by宇城憲治)
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久しぶりに紙の本を持ち歩き。お気に入りの東別院スタバにて^ ^
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「武術というのはできるかできないか実にシンプルで、やってみればすぐに答えが出てしまいますね」
「できるかできないかに尽きる武術の世界に曖昧さはありません。そういう厳しさを踏まえたものであるからこそ大きな意味を持つわけで、それがない人がいくら武道を説いても説得力がありません」(同)
バキ道 14巻
岡野好太郎十段の柔道指南

「昔の人は絞るとか逆をとるとかして、とにかく相手をウンと言わさないといかんことにしてました。立技で、例えば足払いなどで倒れてもそれだけでは負けたように思わなかった」
背中をつくと一本になるのはいつからなんでしょうね。
「当時、武徳会には段というものがなかった」
段や帯は講道館のオリジナル。先見性を感じる。
「大正八、九年から寝技に対する関心が高まりましたね。高専大会での四高の連勝を破るために六高が研究、工夫して関節技、絞技に鮮やかな連絡変化を見せるようになった」
「(第九回高専大会)試合中に六高がやった新しい膝関節技や足からみの形式で寝技に入る技が問題になって試合を中止して審議」
柔術も同じような歩み。まさに歴史は繰り返すか。
「高専大会の試合時間ははじめ、四将まで10分、三将15分、副将30分、大将無制限」
まさに死闘。
「生死の竿頭にたって如何に身を処すべきかという心構えを体得することだ」
心構えも納得。
「戦後は大衆ということを目標にして何でもかでも勝負をつけようとしてます。引分けなどというのは大衆がつまらんというからというのですかね。人間を練るというよりも興行価値の方が大切だという。せめて競技価値といってしかるべきでね。昔は同じ勝つにしても少しでも立派な技で勝てといったものです」
いまも競技と興行のバランスはテーマ。
「組む場合「軽く」ということもよくいわれた。「軽く」組めば相手の動きが指の感覚を通じて速やかに予知できる」「力まかせに組みつくなどというやり方は最も非合理的であるとして排撃された」
「「逃げる」のではなく「脱ける」といいなさい」「「逃げる」には命をかけた戦いの中の攻撃的精神が感じられない」「「脱ける」には反撃精神が包まれている」
「(岡野)先生の絞技は絞められている方は何の苦しみもなくあっという間に失神してしまう(頸動脈だけを上手に圧迫する)高級な技でした」「気持ちよく失神するため絞技による苦しみを感じることがない」
「当時の講道館柔道の足技表現の妙は、他流各派から驚嘆の眼で見られ大いに警戒されたもので、足技は講道館の主流をなしていたが、他流柔術家はその足技を避けるために自護体に構え寝技に引き込んだもの」「自護体で構えてくる相手に、講道館はさらに捨身技を研究した」
「相手が膝をつきまたは横に倒れて「ノコッタ」ときは寝技で攻撃するように指導」「ひとたび投技から寝技に変化したときは、どんなことがあっても相手を立たせない」「制しきるまで攻める」
「投技をかけ「ノコッタ」とき、崩袈裟固、横四方固に入り、相手の態勢に応じ、上四方固、崩上四方固に変化」「横四方に固め、相手がうつ伏せに逃げ」れば「送襟に変化」「相手の背中にのり、後方より制し」「送襟、片羽絞」「馬乗りになって縦四方」に変化。
抑え込みを基本とし、逃れる相手に絞技や関節。極め優先でポジションを従とするサブミッションレスリングと対照的。
おそらく将来のブラジリアン柔術もヨーロッパ柔道のような立技から寝技、即極めの流れになると予想する。
歴史を紐解くと、同じような課題や悩みに創意工夫で乗り越えていく知恵や工夫を感じる。やはりそこは人間なのだ。
格闘技に何が起きているのか/Number(ナンバー)1057号[雑誌]

「終わってから天心にメイウェザーに何をどうやられたのか聞いたんです。そしたら「全部つぶされました。あれって何ですか?」と。相手が打とうと思ったときにパッと手を触って打てなくしてしまう。あれは「さばき」っていう技術なんです。相手の動きを読めるとできる」(byボクシングトレーナー葛西裕一)

「2年ほどPPV事業に携わって、どうやれば熱を生み出し、どうすれば買っていただけるか、掴んだモノはあります。そこで大事なのが、無料放送でスターを作り、注目を集めることなんです。
お客様が「お金を払ってもいい」と思える個性豊かなキャラクター(選手)やストーリーを作っていくことが求められます。
むやみにPPVのコンテンツを作り上げても、視聴者のみなさんの家計を厳しくするだけですし「見たいのに見られない」状況が続けば、せっかく実を結び始めたPPV文化そのものが終わってしまいますから。
より多くの方々に見てもらえる無料放送コンテンツ作りが、これからのPPV戦略のポイントです」(byABEMAプロデューサー北野雄司)

「試合で一番大事なのは勝ち負けです。本気で勝とうとしてるから、負けた時のせつなさも本物になる。"勝敗を超えた試合"なんて目指すもんじゃない。勝ち負けにこだわった結果、勝ち負けを超えてしまうこともあるってことでしかない」(by青木真也)

本能の力/戸塚宏

「人間の行動原理は突き詰めて言えば「快を求め、不快を避ける」ということになります」
「快は心地よいので人間はその状態を目指し、到達すればそこに留まろうとします。逆に不快は嫌だからそれを取り去ろうとします。ということはこうも言えます。人間は快の状態では動かないが、不快の状態では動かざるをえない」
「人間の進歩は、不快を取り去ろうと行動を起こすことによってはじめてもたらされるのです。つまり、人間が進歩するためには「不快」が必要不可欠なのです。本能に基づいている限り、不快感は「悪」ではなく「善」なのです」
「日本の戦後教育は、子供に「不快」を与えるべきではないという考えが主流になってしまいました。たとえば、木登りや橋から川に飛び込むといった遊びを禁止しました。一歩間違えれば生命の危険が伴う、という理由です。しかし、この「一歩間違えれば……」というのが実は「不快」の状態」
「もちろん、「不快」にもいろいろなレベルがあります。効果的に生命力を回復させるには、質の高い「不快」を与えなければなりません」
「最も質の高い「不快」とは何か。それは死の恐怖です。死に至らしめるには三つの道があります。一つ目は物理的に肉体を破壊すること、二つ目はエネルギーを絶つこと、すなわち食物を絶って餓死させること、三つ目は酸素を絶って窒息死させること」
「言うまでもありませんが、あくまでもその恐怖は私たちの管理下において作られたものであって、実際に子供を危険な目に遭わせているわけではありません。彼らには救命胴衣も身に着けさせますし、溺れないように常に私たちが目を光らせているわけですから、溺れてしまうことはないのです。それでも恐怖を感じるというのは、本能的なものですから、皆さんがまだ泳げない頃、一所懸命水泳の練習をしていたときのことを思い出せばおわかりになるでしょう」
強い者とのスパーリングは「質の高い不快」ゆえに生存本能を刺激し、活性化するので元気になれるのではないだろうか。