バーリトゥード日記

バーリトゥード日記

ジェントルアーツ名古屋ブラジリアン柔術クラブ(NBJC)代表早川正城の日記です。
(題字:一ノ瀬芳翠)

カテゴリ : 書籍

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身体を細かく鍛える。それで懐かしい本を古本で取り寄せた^ ^

人体の構造は投げる動作に適している。当然、柔術もそのように組み立てている。例えば、上腕二頭筋(力こぶ)が張る時はいいムーブではないと考える。

柔術の基本は、1、呼吸、2、ベース(姿勢)、3、コネクション。ベースはバランス&筋力。

ムーブ最優先でベースをアシストする筋肉を鍛える。

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「何を探っているのか、何を隠しているのか......。警戒してたんですけど、4回あたりで『おっ、これは何もできないんだな』と確信しました。表情で分かるんですよ。焦ってきているとか、やりたいことがやれないというのは」

「自分が距離で外すから得意の左のロングが打てない。こっちがあれだけ速いバックステップで外すと、向こうは空振りが怖いんです。このレベルになると必ずリターンを返されますから。だから自分から打っていけない。打てないとガード一辺倒になってボクシングが単純になる」

「前の手と、後ろ重心と、左を当てさせない距離、ポジション。それがドンピシャにはまったかなと思います」


「井上選手に距離を取られて、完全に把握されている状態ですよ。そのまま前に行けば、カウンターを取られるのは目に見えています。「なんで、行かないのか」と言う人もいますが、行きたくても、行けないんです。それくらい、怖いんだから」(岩佐亮佑)

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「そしていま、人間が得た力は、もはや人間の学中から離れようとしている。人間にしかできないと思われていたことが、ことごとく破壊されていくのを目の当たりにしながら、ハラリの問いがいま、改めて投げかけられている。僕たちはなぜ働き、経済活動をこなしているのだろう。経済の発展は人々が遺かになっていく過程だったはずだが、少なくとも僕は、テクノロジーの進化や未来にはワクワクする一方で、活力が満たされ切らない自分と直面する日々が続いていた。

それはおそらく、テクノロジーの進化の恩恵を多分に受けながら、頭と手ばかりを使うだけで済むことが増えていき、気づかぬうちに全身を使えていない日常に陥って
いるからじゃないか。だから取り憑かれたように、奪われつつある本来の身体性を取り戻そうとするかのように、ときに山に入ったり、自然の中を歩いたり、あるいは毎日のように多摩川の河川敷を歩いているんじゃないだろうか。

AIであれモビリティであれ、そんな僕個人の危機感などお構いなしに目まぐるしく進化し続けるだろうし、いつだってテクノロジーはその時代の人類のあり方を決めてきたこともわかっている。しかし同時に、その反動や揺り戻しがどこから起きるのかが僕の関心事になった。

そして、テクノロジーや経済の未来は、いよいよこの視点、つまり人間の身体性という視点を抜きにしては語れない時代に突入していくんじゃないか、と直感するようになった。

人間の幸せは、動物として快調かどうかにかかっている。その生きた心地というものは本来、身体感覚と密接に関わっている。それをあまりにも置き去りにした、身体性を奪ってゆくばかりの社会システムは長くは続かず、やがて綻びが生まれ、辻褄が合わなくなると思うからだ。

第一、人間の生き物としての設計は、少なくとも20万年は変わっていない。ハーバード大学の医学准教授ジョン・J・レイティが指摘するように、狩猟採集時代から、人体は特段のアップデートはなされていないのだ。

だからこそ、テクノロジーの進化とパラレルに、まるでコインの裏と表のように、身体性をいかに取り戻すかが、もう一つの大きなイシューになっていくんじゃないか」





「人間の幸せは、動物として快調かどうかにかかっている」

「身体性を取り戻す」

私たちが柔術をする要因の一つだろうね^ ^♪

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業界的にキラーワードの「合気」(笑)。

ところで「合気」とはなにか?

私は「合気」の使い手の「合気」受けたことがないので、「透明な力」などの佐川伝からヒントを読み解くに過ぎない。

「合気」の定義を著者は

「相手のバランスを、接触面を通して様々な技術でエネルギーを与えて崩し、それにより相手が我を頼ることになり、結果的にコントロールが可能となる」

としている。

筋力&梃子を利用した柔術。骨、靭帯、腱に作用させる術理、肩の操作、頭の重心位置など様々な切り口は参考になったし、楽しく読ませてもらった。

ところで新陰流「龍の口」だと、「なぜ合気になるのか」。そこの説明が欲しかったよね。

触れるだけで作用するのが「合気」とするなら様々なガチ勢と手合わせできるはずだが、いかがだろうか。



PS.「触れ合気」岡本正剛先生に手を取ってもらったことがあった^ ^;

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「間合いと角度のワーク」

「人と人との距離や角度は、物理的なものと心理的なものの二つがあります。

心理的なものは物理的なものに影響を受け、実際の距離とイメージする距離は違うものであるということ。

それらはいくらでもコントロール可能であり、それこそが武術そのものであるということ」(by山城美智)



待望の山城先生の新刊。上梓おめでとうございます。じっくり勉強させていただきます^ ^

PS.振込みで取り寄せた。送料200円を忘れ、追加で送金。200円の振込み手数料270円也(笑)。

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「【中国拳法は力より技を重視する】


中国拳法は力を増す鍛練よりも、力をいかにして巧みに運用するかという練習法に重点をおいている。


力はないよりもあるに越したことはないが、あまり力の鍛練に偏重すると、のちには力に頼った技が先走るようになり、最後は拳法の行き詰まりをたどることになる。


これというのは、力の強弱と体格の大小は相関関係にあるゆえ、体の小さい人は体の大きい人に比べると力が劣ることが多い。たとえ訓練によって、ある程度力の強化が図れたにせよ力の増強には限界がある。


それに体格の大小は先天的な要素が大きく関連しているので、この体格の大小と力の強弱のハンディキャップ(不利な条件)を力の鍛練で乗り越えるのは、困難なことである。まして力は時(年)がたつにつれて、衰えて行くので、力に頼った技も、これにしたがって効力を失い、拳法の行きづまりが生じるのである。


力が有限であるのに比べて、技は無限であり時間が経つにしたがい、力の衰えるのに対し技は段々と磨きがかかる。よってこの技の学習と研究を続けることこそ、体格の大小による力の強弱やリーチの長短のハンディーキャップを補うことのできるもっともよい方法であろう。


【体の小さい者が大きい者と戦うには】


体の大きい者、すなわち手足の長い相手と戦う場合は、長距離戦(問合が広い)よりも、接近戦をおこなった方が得策であるのは周知の通りである。


長距離戦では、自分の攻撃はリーチ(手の長さ)が短いため、相手に届かず、相手の長いリーチの攻撃を一方的に受けることになるのできわめて不利である。


だが、接近戦になれば、自分の攻撃も相手に届くようになり、しかも間合の狭まった接近戦では手足の長い方よりも短い方が、小きざみに動きやすい利点がある。手足の長い方はその長さが災いして動きが思うようにとれなくなる。


戦いは遠距離から接近戦へと順次におこなわれるので、接近戦の利点を生かすにはまず、遠距離戦をかわして接近戦に持ち込む研究をするべきである。


【相手の動きを事前に知るには】


接近戦に入り込むにはまず相手の攻撃より自分自身の安全を守ることである。それには相手の動きに対してすばやく反応を示すことも大切であるが、相手の動き(攻撃)をいかに前もって読み取り、さらに相手の動きを封じ込むことがもっとも肝要である。


相手の動きに対する反応は、個人の反射神経や経験によるところが多いので、研究の対象から外し、相手の動きを前もって読み取り、封じ込める二点に集中して考える。


相手の動きを読み取るというのは、相手の動きの意図をいちはやく見破り、そしてそれに対応すべき措置を整え、攻防に有利な体勢を確保することである。


たとえば、相手の踏み込みで、相手の攻撃の時機を知ることができる。そして相手が攻撃する標的も自分の構え方で相手の攻撃法を概ね知ることができる。


これというのは、相手の攻撃は自分に向けておこなわれるので、その攻撃の目標はたいてい自分の構えの隙である。


相手の攻撃する場所=自分の構えの隙を知ることによって、相手の攻撃する方法も前もって知ることができ、自分に有利な攻撃を展開することができる。


また、自分の構えに打ち込まれる隙が小さい、あるいはない場合、相手があえて攻撃を加えるのであれば、相手は攻撃の邪魔になる自分の構えを崩すことから着手することになるので、相手の構えの崩れ方で攻撃のパターンを予見することができる。


これによって相手の攻撃の隙をついて逆襲することも可能であるなど、より効果的な攻防をくり広げることができるのである。

相手の攻撃を予見できることによって、相手の攻撃の出ばなを挫き、そして攻撃を封じ込むことが可能になる。


たとえば、自分の手を相手の中心線に向けて構えたとする。攻撃する相手にとって、自分の構えの手は攻撃の邪魔になるだけでなく、相手の中心線上にある、鼻・のど・みぞおちなどの急所をねらいつけているため、相手は攻撃するにはまず、中心線が制圧されている脅威を取り除くことが先決になるので、相手の攻防は一歩遅れることになるばかりでなく、相手の攻撃する勢いははずされる。


このようにして自分は相手の攻撃を未然に封じ込めることができると共に、攻防の主導権を握ることになる。


【有利な体勢を確保するには】


自分の攻防に有利な体勢を確保するには、相手の長いリーチの攻撃をかわして、接近戦に持って行くのであるが、その方法は相手の攻撃を担う手を殺すことである。(足は体を支えるなどの役目があるので説明の便宜上はぶく)


つまり、自分の手(片手又は両手)を相手の手(片手又は両手)に粘りっこくくっつけ、纏わり付くことにより、相手の後退・防御の動きを牽制し、攻撃を阻止することができるのである。


こうしてより安全に相手に接近することができるのである。


【力の弱い者が強い者と戦うには】


力の強い相手と戦う場合には、やはり遠距離戦は不利である。というのは力は動くことによって加速度的に威力を増し、勢いつくものである。


その勢いづいた攻撃をくい止めるのは容易なことではない。そして相手との距離を遠く保つことは相手に動く距離・範囲を広く与えることであるので、相手の動く空間を狭めることができれば、相手の力を未発のうちに封じ込めたり、流す、消す、もしくは削り減らすことが可能になる。


また、相手との距離を狭めることは、相手が空間内での変化を少なくすることにもなる。


相手との空間(距離)を狭めることによって、いく点かの利益を得ることができるが、相手との空間を狭めるにあたり、もっとも重要なポイントは交叉である。


つまり力を発揮するには、その媒介となる手足の動きが必要であるが、自分の手足を相手の手足に交叉させることによって、相手の手足の動きによる力の発揮をくい止め、相手の攻防の変化を防げるのである。


自分よりリーチ・力の優る体の大きい相手との戦いは、交叉法を活用した接近戦を使うことによって、そのハンディーキャップを補うことができる最も良い方法である。


それに交叉法を認識、活用することによってはじめて、中国拳法の特長である円運動が有効となり、攻防一体の動きを可能にさせ、小をもって大を制することができるようになる」


【打ち込める隙間とは】


打ち込める隙間とは、打ち込められる隙間や空間である。つまり相手が守っていない所や守りの弱い所である。


たとえば構えの低い人の場合は頭部であり、構えの高い人の場合は腹部などである。


構え中段でも手と手の間や、上下・左右など守りきれぬ所はみな隙間である。相手の隙間を見つけることで、先制攻撃を仕掛けられる。これによって相手を遅らせ、先手を取ることができる。またこれにより新たな隙間を導くことも可能になる。


【動ける隙間とは】


動ける隙間とは、動けるための隙間や空間である。動くには空間が必要なのは周知の通りである。さがる・避ける・打つ・受けるなどは共に空間がなければできない。


さがる・避けるには後と左右の空間が必要である。これと同様に打つ・受けるにも前の空間が必要である。これは壁の前に立って試すとよくわかることである。壁と体の空間をなくすと(壁と体が密着する)打つことも受けることもできない。


組手の時、相手を攻撃してもなかなか意にかなえることができないのは、相手は攻撃に応じて動くからである。このため相手の動きをいかにして止めるかは、組手の重要な課題である。


これはいかにして相手の動く空間を狭め、なくすことかである。ここでは、さがる・避けるための後の空間は、説明の便宜上研究の対象からはずし、打つ・受けるに必要な前の空間を分析して行こう。


前の空間、いいかえれば勢力範囲や縄張りである。静止した構えを具体的な例にすると、構えの両手と体との間は前の空間であり、自分の勢力範囲・縄張りである。そして両手はその警戒線(境界線)となる。


前の空間を広く持つことにより、勢力範囲は広くなり、警戒線も前方に広がり、ふところの奥行きが深くなる。こうすれば相手の攻撃に対し、いち早くしゃ断することができ、自分をより安全にする。


また警戒線(両手)が前方に位置しているから、相手に近い拳掌はよりすばやく、正確な攻撃を可能にし、たえず相手の脅威となる。


中国拳法では寸勤といって、手を後ろに引いて弾みをつけて打たなくとも、相手にごく近い距離から打っても、相手を倒す打法があるし、またあまり引いて打つ打法はない(あまり引いて打つと攻撃目標に当てにくい)ので、両手を前に出しておいても何ら不利とならない。


反対に前の空間が狭いと、警戒線も狭まり、相手の手が目前に迫り出し、自分の動きを妨げ、攻防を困難にする。いわゆる打たれる隙間を小さくし、動く隙間を大きくする」

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「SNSで出回っている言葉があまりにも無防備で、ナイフがびゅんびゅん飛び回っている状態」

「炎上や誹謗中傷のような、わかりやすい批判の言葉も、もちろんそのナイフのひとつなのですが。普通に正しいことを言っている顔をした言葉のなかにもまた、ものすごく危険なナイフを振り回しているように見える言葉が、たくさんあります。

たとえ言っていることが正しくても、言い方がものすごく強くて、激しい言葉は、やっぱり扱いが難しいものです。劇薬すぎる」

「もちろん自分がナイフを使っている自覚も必要ですが、それと同時に、他人のナイフから自分を守ることのほうがよっぽど重要だと思うんですよね。
やっていきましょう。自分と他人の言葉をわけるんです。

そして自分の身を守りましょう。言葉はけっこう、危険なものです」



「自分が傷つかないのはもちろん、相手も必要以上に傷つけない」

これをジェントルアーツと呼ぶ、ヒクソングレイシーの言葉に感動して始めた柔術。

言葉も同じく柔術、ジェントルアーツでありたいね^ ^

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「秘伝日本柔術」より

「昭和初年、惣角のすすめにより札幌市円山に大東流合気柔術指南の道場を開く。この頃に北大ラクビー部の者で、後に日東化学(釧路)工務部長となった飯田毅氏が、当時柔道部の選手と道場破りの意気込みで、佐川師範の道場に押しかけたが、逆に佐川師範よりさんざんな目に合わせられた思い出を、日東化学厚生会機関紙『こころ』(昭和三十一年六月五日号)でつぎのようにのべている。

「(前略)筆者が佐川先生の門に入ったのは北大の学生の時であるが、当時の北大予科は柔道の全盛時代で、筆者が予科三年の時には全国高専大会に優勝し強豪が揃っていた。

小生は柔道はせずラグビーの選手であったが、運動部並びに家の関係で柔道部の選手と親しく、その連中とも一緒に佐川先生の所に行ったが、柔道の猛者達も素人の小生と全く同じで、合気にかかっては赤子のように操られひねられてしまう。

剣にしても同様、剣道の高段者がきさら踊りをさせられ、昔宮本武蔵が塚原ト伝に鍋の蓋で太刀を押えられて、身動きできないのを実地に見るようであった。

講道館の三船十段が「押さば廻れ」は柔道の極意であるとかいわれ、又空気投を得意とされているが、あのようなことは合気の理の一部で、合気には空気投以上の絶妙の技が無数にあることは、先程の六法(歌舞伎の勧進帳にて弁慶が六法を踏み、両手を開いて舞い進み、敵を前後左右へ投げる所作)の例の如きでも理解できよう。

只、学ぶ順序として、逆手から入ることが多いので、大東流又は合気というと逆技専門と思う人が多く(小生も入問当時はさように考えた)また、当身だとかあるいは投技だとかと判ったような顔をする者があるが、いずれも群盲巨象を撫でる類で、合気の行理は過に幽玄なものである。(後略)」

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「ライオン、虎、ヒョウと戦わば」

「人間対ライオン、虎の戦いは、食われた記録として残っているだけである」

「ライオンと人間の個体差は、ちょうど横綱と中学生くらいであろう」

「ラクダでさえ人間の頭を噛みくだくのだ」

「たった一つ試してみたい奇襲作戦がある。それは・・・・・・」



子どもの頃、地上最強はマス大山だった。なんの疑問も抱かなかった^ ^

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「塩田先生は晩年、「合気道とは天地自然と一体になることだ」とおっしゃるようになりました。そして「植芝先生は神だの宇宙だのわけのわからないことばっかり言ってたけど、ようやくその裏付けが取れてきた」ともおっしゃったのです。

私が若い頃の塩田先生は、強い呼吸力を発揮する激しく厳しい技ばかりで、こちらが受けを取るのも必死でした。しかし年齢を重ねるにつれて、相手の力を消したり、抜いたりという技が身につき、まったくの自然体で自由自在に相手を崩すようになりました。

以前は技の強さによって逆らえなかったのが、次第にふわっとしているけれども逆らえない技に変わってきたのです。相手の力を全部自分のものにするのだと先生は言うのです。そういった高い技術を習得されたときに、気が付いたら植芝先生のおっしやっていた「天地自然と一体になる」という境地が、理屈ではなく、実感として自分のものになったのでしょう。

そして、私自身も六十歳を超えた頃から、相手の力を消してしまう技が身についきました。

それを今私は「抜き」と呼んでいますが、その技術に熟達するにつれ、まさにどこにも無理がなく、自然体そのものから技が自由自在に生れてくるようになりました。

そこには相手と争うような気持ちはこれっぽっちも必要ありません。自然体ということの本当の意味がわかってきたのです。そうしたら、合気道がますます楽しくなってきました。

塩田先生は、剣術家・鬼一法眼の「対すれば相和す」という言葉を、合気道の技の極意であり精神的理念の象徴として、常に私たちに説いていましたが、私にもようやくその言葉が、なるほどなあと実感を持てるようになってきました」

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