バーリトゥード日記

バーリトゥード日記

ジェントルアーツ名古屋ブラジリアン柔術クラブ(NBJC)代表早川正城の日記です。
(題字:一ノ瀬芳翠)

カテゴリ : 書籍

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中国の文化など

「中国の北方人と南方人の気質の違いというものに原因があるようでした。よく中国では「北方人は単純でさっぱりしていて、南方人は陰険だ」などと言いますが、私に言わせればこれは全く逆です。日本のように豊かな自然に恵まれている中国の南方の人達は、「あの人はあの人で決して悪い人ではないんだよ」などと、まるで日本人のように曖昧でのんきな甘い考え方をするのですが、自然に恵まれず、乾燥して砂漠のようなまるで中東やロシアのように過酷な環境で育つ中国の北方の人達は、考え方がとにかくドライでシビアで、何事も暴力で解決しようとする」


「中国には、北方人と南方人の問題だけでなく、他にも色々な問題が存在していました。私の知る限りでは、安徽人・河南人が差別される問題、北京人と上海人、広東人と福建人が不仲であると云う問題、チベット・内モンゴル・ウイグル等の少数民族に対する差別問題、沿海部と内陸部の経済格差問題、急激な経済発展に伴う環境破壊問題などです」

「中国国内の北方人と南方人で仲良く出来ない中国人達と、我々日本人が仲良くするのは、かなり困難なのではないでしょうか」

「日本のような島国国家と、中国のような大陸国家・多民族国家では環境が違い過ぎていて、文化も人のモノの考え方もちがうのです。 例えば、私は子供の頃、食事の時には、両親から必ず「食べ物を育ててくれたり、作ってくれた人に感謝して食べろ」と言われて育ったのですが、中国の親は自分の子供に、「まず一口味見して、食べ物が腐っていないか、毒が盛られていないか、確かめろ」と言って育てるそうです」

「中国人と、ドイツ人は友達だけど日本人は友達ではない。なぜなら日本人はドイツ人のように反省してないからだ」

「外食する時に日本人とばれると砒素を盛られる事が有ると聞いていたので、たまにお店の人に「あんた、どこの国の人」などと訊かれた時などは、「オレは朝鮮人だ。平壌から来た」と答える事にしていました。とにかく中国は国土が広い国なので、自分から「日本人だ」と名乗らなければ、私が広東人なのか、ウイグル人なのか、モンゴル人なのか、韓国人なのか、台湾人なのか、全く分からないのです」

「北京の公安は本当に恐いのです。違法に営業している露天商の屋台を平気で蹴飛ばして破壊したりする」

「「じゃあ、各地の弟子を集結させれば革命が起こせますね」と言いました。この時も公安関係者が何人も来ていて、私達はなんとも気まずい雰囲気になってしまいました。どうやら中華人民共和国では「革命」と云う言葉はタブーのようです」

「北京人は、文革の話になるとすごく盛り上がるんですよ。何といっても毛沢東主席のお膝元でしたからね。中国には今もなお、文革中バトルロワイヤルのような事をやった人殺し達が大勢生きています。日本人は、もっと慎重に中国と関わった方がよいのではないでしょうか」

「ちなみに道場では、同じ広東省出身者でも広州の人と潮州の人では言葉が違っていて通じないので、北京語で会話をしているのです」

「道理で日本の著名な空手家に、朝鮮半島系の人が多いはずです。もう本当に根性が違い過ぎるのです。只、蔡熙培に言わせると「韓国人は何事も一時期猛烈に熱中するが、すぐに放棄する。それに比べて中国人は、ちんたらちんたら練習して、しかも上達もしないのに、とにかく諦めないで続ける。やっぱり中国人は、たいしたもんだ」

「それと論語の学而篇の「朋有り遠方より来たる亦た楽しからずや」この章句の解釈が、中国人も日本人も韓国人も間違えている、らしいのです。この章句の本当の意味は『例えどんなに優れた学問であっても、自分から人に勧めてはいけない。向こうから来るまで待て』だと云うのです」


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意拳とは

「意拳・大成拳は、過激な若者達が練習するヤクザ拳法」

 姚承荣

「藤井、お前にこれが何の為の練習か教えてやるから好きなように打ち込んで来い!」と言うなり開掌で構えました。その眼光の鋭さは、まるで龍のようです。しかたなく、私が牽制の上段回しゲリをけろうとした刹那、私の顔面に姚先生の直拳が五、六発叩き込まれました」

「私の両腕を分挂発力で開くと必殺の頭突きを私の治りかけていたタンコブの上にブチかましました。たぶん姚先生は私が遅刻して来た事が、気に入らなかったのでしょう。あの頃の姚先生は今よりもはるかに厳しかったのです」

「姚承荣先生は他流派の人と何百回と試合をして、一度も負けた事がないそうです。私はこれは真実だと思います。姚先生の本当のガチンコの試合を私は三回位しか見た事が無いのですが、ガチンコの試合では、姚先生がDVDの中で弟子を相手にやっている散手とは、もうスピードが違い過ぎるのです。とにかく猫科動物のように速いのです」

▼寸勁について

「寸勁とは相手に接近して、連打するショートレンジパンチの事だ。動く相手の胸に拳を当ててられるか、相手だって逃げるんだぞ!」

▼空勁について

「「もしそういう技が有るとしたら、オレには出来ない。たぶん王薌齋先生は出来ただろう」と答えました。劉さんは、納得のいかないような顔をして「王薌齋先生一体、どうやってたのかな?」と呟きました。そこで私が姚先生に「王薌齋先生どうやってたの」と思い切って質問すると姚先生は、「藤井空勁ってのはな、高速歩法を使って相手に見えないぐらいの速さで接近して、且つ相手が触れられたのを感じないぐらいの速さで発力してふっ飛ばすんだ。相手に触れないで飛ばすのは物理的に不可能だ」」

 姚氏意拳第三代伝人、姚宗勲老師の孫、姚悦

「姚悦は姚宗勲老師の孫で姚氏意拳第三代伝人になるべき人間だから、まあ仕方が無いのでしょうが、とにかく新しく入って来る学生を滅茶苦茶にやっつけるのです。一人も姚悦と推手、散手を練習しようとする人間はいません。当時、姚悦は二十歳ぐらいだったのですが流石に姚承荣先生のスパルタ教育を受けていただけ有り、その功夫はかなりのものでした。とにかく、構えが崩れないのです。私は姚悦が石家荘から来た無礼な形意拳家を、斜め下からの張り手一発でKOしたのを目撃した事が有ります。当時、姚悦の体重は70kg位だったのですがその迫力たるや、まるで相撲の旭道山関の張り手を見るようでした。姚悦は常々私に「もっと思いっきりぶん殴りたい。もっと思いっきりふっ飛ばしたい」と言っていたものです。どうやらあれでもかなり力を抑えていたようです」

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「姚先生は「藤井、丹田を開くにはな、毎日基本功を徹底的に練習して、それによって実戦の時、如何なる情況下に在っても、何の恐れも感じず普段の練習通りに動けて、且つ相手を一撃で倒せるようになった時、その時こそ丹田が開いた時だ」

「世の中方法が無くても方法は有る」

「姚先生曰く「藤井、お前の動作は完了していない。動作は必ず完了させろ。きちんと拳を握り込め!」これは私がシャドートレーニングをしていた時に、よく言われた言葉です。姚先生は、とにかくボクシングの左ジャブのような動作を嫌うのです。たとえ、どんなに短い距離のパンチでも整体力を具えていなければ相手に作用しないらしいのです。又相手に恐怖感を与える事も出来ないのでフェイントにもならないそうです。それを指摘されてから、私が動作の完了を意識しながらシャドートレーニングをしていると、姚先生が近づいて来て、めずらしく腕を組みながら熱心に私の動作を見ています。私は姚先生が誉めてくれるのかと期待していたのですが、「你什都会了(ニイ・シャンマ・ドォウー・ホウイ・ラ)、功夫不行(ゴン・フー・ブウ・シィン)。お前は何でも出来るようになった。だけど功夫はだめだ!」と吐きすてました。   だったらどうしたら功夫が強くなるのかを教えてくれればいいのに。自分で悟れという事なのですかね。そして私の「意拳に秘伝は有るのですか」という大変不躾な質問に対しては「下功夫(シアコンフー)・下功夫(シアコンフー)・下功夫(シアコンフー)」と答えてくれました。要するに努力して努力して努しろ、というわけです」

「お前は飯食ったり寝る時間は有るのに、練習する時間はねえのか」

「外省から出て来たばかりの若者が、姚先生に「あんた、マイク・タイソンに勝てんのか」と質問しました。姚先生は「オレは生まれてから一度も自分が負ける事を考えた事はねえ。相手はオレの獲物だ。強ければ強いほど嬉しくなる」」

「オレがお前らの前で動いて見せていると云う事は、お前らに全てを教えているって事だ。これだけやって見せてるのに出来るようにならないお前らは大バカなんだ!」

「オレがお前らにギャーギャー喧しく言うのはな、お前らが他流派のやつらに殺されずにすむ為だ!」

▼達人・李日炯(イイルヒョン) 

「蔡熙培が特に熱く語っていて私も興味を覚えたのは、彼の蟷螂拳の師匠・李日炯先生の話です。この李日炯先生は、李徳江先生の弟子で、李徳江門下では最強だったそうです。1960年代にソウル市内で一人で100人以上のヤクザを蟷螂手(たぶん手首の親指側の部位)でやっつけたり、砂の入ったサンドバッグを蟷螂拳の鴛鴦脚(えんおうきゃく)と云う技で天井まで蹴り上げて爆発させたり、公園で日本剣道の練習をする韓国警察の機動隊員達を棒切れ一本でなぎ倒したり、子供の頃ソウルの関帝廟で「オレは必ず関雲長のような強い男になる」と誓ったりした事。そしてケンカ三昧の日々を送り、或る朝、目が醒めたら、何故か全く恐怖感というものを感じなくなり、その時から丹田が開いたらしく、もの凄い力が出てもの凄い速さで体が勝手に反応出来るようになり、ちょっと手で触れただけで相手がふっ飛ぶようになったと云う事など、李日炯先生の話は、何度聞いても飽きませんでした」

「李徳江先生は私に「この土間の上を歩いてみろ」と言いました。言われた通りに歩いてみると、私は一瞬バランスを崩し目眩を感じました。と同時に「これだ!これなんだ!!! 今までオレにはこの感覚が足りなかったんだ! これで意拳の謎が解けるぞ! 今までの一文にもならない努力が報われるぞ! ざまあみろ!」と心の中でそっと叫びました。   私の真の意拳の練習は、この時から始まったのです。この日以来、私の站椿、試力、摩擦歩、拳法、腿法全ての感覚が変わりました。   後は今までに、姚承荣先生から習った技をこの感覚を維持しながら練り直せばいいのです。私の本当の意拳修行が今始まったのです。   人が見なくても花は咲くのです」

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「すべての雑談は、会話を通じて、お互いの警戒心を解き、スムーズで円滑な関係にシフトするのが目的です」


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人見知りな私。この本はおもしろかった♪

雑談の内容はほぼどうでもよく、会話が続くようにラリーすれば良いとは目からウロコ(笑)。

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孤高の天才空手家、山崎照朝の半生を本人、関係者の証言を交え描いている。

その生き様はまさに「武士」。極真系のこの手の本の多くは読了感のスッキリしないものが多かったが、清々しい気持ちにさせてくれる。

自身のエピソードは天才ゆえに、さらっと結果が出てしまいすぎてあっさりな印象だが、

師大山倍達や先輩芦原英幸を語るくだりに山崎自身の努力のあとを感じずにいられない。




▼大山倍達の自宅を訪れた時にビール瓶が無数に転がっていた。ビール瓶切りをするための練習をしていたのだ。

「まずは深い傷の瓶を(手刀で)切っていく。館長(大山倍達)はイメージと体の動きを一致させながら、百発百中になったら、浅い傷の瓶へ進む。何度も練習して、最後は傷なしの瓶もできるようになった。それを聞いたとき、すごい執念だなと思ったんだ。同時に理にかなっているなとも思った。何回も繰り返して、失敗を重ねた上で、タイミングと動きをつかんでいく。少しずつ成功して、最後はできるようになる。それはどんな技でも同じことなんだよな」

「10円玉を曲げる大山館長の指の力。普通の人は手首を持たれただけで(骨が)折れて、喧嘩が終わっちゃう。牛と闘ったときだって、ねじ伏せた。いろんなことを言う人がいるけど、普通はできない。館長は実戦でどう闘うか。喧嘩になったらどうするかを常に考えていた。武道家として考えた場合、大山倍達の右に出る者はいない。俺はそう思う。近くにいればいるほど、そう感じたんだ」



▼皆が恐れてやりたがらない芦原英幸と進んで組手をした。

「芦原先輩の凄さを(みんなは)知らない。道場では当てっこなんだよ。顔面、金的、急所でもいい。反則というのは技なんだよ。反則だから使わないというのはその人の考え方。だけど、反則も技と考えたらそれを極めるのが一番強い。そういう論理。組手を教えてくれたのが芦原先輩。顔面や金的をスパッと蹴る。百発百中でできる人はいない。相手は「汚いことをやりやがって」と向かってくる。そのリスクも計算の上でやるから、そういうのをさらっとやるのが芦原先輩。普通の技のようにやるんだよな」

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豪傑。子供の頃に思い描いたプロレスラーへのイメージ。たらふく飲んで食べて腕っぷしも強い。

それでアメリカを渡り歩いた男。マサ斎藤だ。


▼腕っぷしの強さ。

「マサ あったね。プロレス以外にもタフマンコンテストなんかもあったしね。南部はそういう腕自慢みたいなヤツが多いんだよ。そういうヤツも相手にして。でも、そういう試合をやってるレスラーは、南部では俺以外にもいっぱいいたよ。

――じゃあ、当時のプロレスラーは、みんなシュートができるというか、腕っ節に自信がある選手がゴロゴロしてたわけですか。

マサ そう。ストリートファイトに自信がなかったら、バーで酒も飲めないんだから。よくあんなところ行ったもんだよ。いま考えたらゾッとするよ。アル中、ヤク中がゴロゴロしてて、ケンカでナイフやピストルが出ることだって、珍しくないんだから。

――凄いですねぇ……。強くなきゃバーで飲むことすらできないんですね。それは心身ともにタフになりますね。

マサ なるね。

――日本の格闘技ファンはよく、ガチンコだ、シュートだ、プロレスだなんて軽々しく言いますけど、そんなの超越してますよね。

マサ 違う違う。ストリートでの強さを持ったヤツが多かったよ。それがあるからリング上でサバイブできるんだよ」


▼レスリングベア(熊)との対戦について。

「凄い力だよ。もちろんツメは切ってあって、噛まれないようにクマにマスクさせてるんだけど、たまにマスクがズレるんだよ。そのときは焦るよな。一回、ケツを噛まれてるからさ(笑)」

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▼稼ぎについて。

「手が合うも何も、こっちはどんな試合でもやれる自信があったから。たとえばサウス(南部)行けば、その土地に合った試合をしなきゃいけないし、ニューヨーク行けばニューヨークのスタイル、ミネアポリスではミネアポリスのスタイル。その土地その土地に合ったスタイルでやってきたから、どこでもトップを取れる自信あったよ。できないのはル〜チャだけよ(笑)」

「マサ 俺はラッキーだったんだよな。アメリカ行って一カ月半でサンフランシスコに行って、トップよ。一週間で2000ドル稼いでたから。

――一週間で2000ドルというと、1ドル360円の時代ですから、72万円。単純計算で月に約300万円ですか。当時の価値からしたら、凄い金額ですね!」

「マサ 稼ぎ自体はニューヨークのほうが上だけど、フロリダは1週間に2000マイルぐらいしかドライブしなくていいのが良かったね。でも、ニューヨークでは、年間20万ドル稼いだよ。

――凄いですねえ。当時のファイトマネーっていうのは、ハウスの収益によって左右されるんですか?

マサ そう。ハウスの収益が良ければ、そのうちの何パーセントが入ってくるっていうかたちだね。

――それは毎試合チェックでもらうんですか?

マサ いや、当時はキャッシュよ。

――現金ですか!

マサ しかも、興行収益をそのまま猜け前瓩澆燭い吠Г錣譴襪里茵

――分け前(笑)。

マサ ニューヨークなんかは、ハウスショーが終わった後、でかいテーブルに現金がドーンって積んであってさ、名前呼ばれたらそこに行って、小さなペーパーにサインさせられて、その現金の山から札束をドーンとわたされるのよ(笑)。

――試合後そのままゲンナマって、それは狄搬里撚圓い任覘瓩辰撞い砲發覆蠅泙垢諭幣弌法

マサ 普通はさ100ドル札とか20ドル札で支払われれば、そんなに束にならなくて済むんだけど、チケット収益そのままだからさ、10ドル札、5ドル札、1ドル札なんかもはいってるから、もの凄い束になっちゃうのよ(笑)。だから、こっちは大変よ。俺たちは1試合1500ドルぐらい稼いでたから、1ドル札や5ドル札じゃ、もの凄い量になるんだよな。銀行に持っていくのにバックがパンパンになってるんだよ。たまに3試合分ぐらいいっぺんに渡されると、とんでもない量になるのよ。

――そんな大量な現金を持ち歩いてたんですね(笑)。

マサ 毎日、札を大量に持ってくるもんだからさ、銀行のおばちゃんがいつもへんな顔してたよ(笑)」


▼アメリカ転戦中。

「マサ アイヴァン(イワン・コロフ)たちとマイアミとかよく行ったんだけど、あの一帯ってハリケーンがよく来るんだよね。でも、ドライブするのは面倒くさいから、古くて小さいチャーター機を二機に分かれて乗って行くんだけど、必ず大揺れに揺れるんだよ。

――嵐の中を小型飛行機で突入って、自殺行為ですよ!

マサ あるとき俺たちは2エンジンの6人乗りぐらいで、もう一機はワンエンジンのセスナで行ったのよ。そしたら案の定、嵐の中に入っちゃって、ワンエンジンのほうが落ちてね。

――えっ! 飛行機が落ちちゃったんですか!?

マサ うん。ちょうど沼地に落ちてね。ワニとかヘビがうじゃうじゃいる沼なんだけど、そこに落ちて助かったんだよ。

――大事件じゃないですか!

マサ そうでもないよ。しょっちゅう落っこちてたから。

――飛行機がしょっちゅう落ちてますか(笑)。マサさんたちの飛行機は大丈夫だったんですか?

マサ 俺たちが乗ってたのは、2エンジンだったから大丈夫だったんだよ。ワンエンジンはヤバい。それでさ、俺たちは飛行機に乗ると、必ず機内でポーカーすんのよ。それに夢中になっちゃうから、飛行機が揺れようが落ちようが関係ない。墜落しそうなぐらい揺れてるのに、みんなシートベルトもしないで、ポーカーで熱くなってんだから(笑)。考えられる?

――考えられません(笑)。

マサ それで無事到着したら、「おー着いたか。じゃあ、やめようか」ってなもんで。ポーカーやらないヤツらは、青くなってるんだよ(笑)。でも、俺とかアイヴァンはポーカーに夢中で、全然、気がつかなかった。

――死にかけてるのに(笑)。

マサ もう一機が落ちたのもさ、試合場で「落っこったよ」って聞いて初めて知ったぐらいで。なんだか、みんな身体中擦り傷だらけだと思ったんだよな〜。

――なんか飛行機が落ちたのを軽のバンが、道路脇の田んぼに落っこちたぐらいの感じで言いますね(笑)。

マサ そんなもんだよ。あの頃はよき時代だったからさ、飛行機じゃなくて、たまにドライブするときは、試合後みんなでビール飲みながら帰るんだよね」


▼あのこと(笑)。

「そしたら、もう一人のポリスが拳銃を抜こうとしてて、瞬間的に「殺られる!」と思った俺は、タックルで倒して、足首を捻って折ったのよ。そのあと、無線で呼ばれたお巡りがたくさん来て、大立ち回りの挙げ句取り押さえられたんだけど、おかげで1年半の刑務所暮らしだよ」

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▼東京オリンピック代表アマレスラー
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「練習は厳しかったね。しかも練習内容が全部、軽量級用のメニューなんだよな。それじゃ、俺たちヘビー級は身体がもたないよ。走る距離も軽量級と同じだし、懸垂なんかも軽量級と同じだけやらされたからね。キツいに決まってんじゃん」

「マサ 違うね。緊張感が桁違いだよ。それにやっぱり、オリンピックの重量級では、身体が大きくて化け物みたいなのがゴロゴロいたからね。俺が最初にやったヤツは、スウェーデンの選手で130キロ近くあったからね。こっちは97キロぐらいなのに」

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「でも、オリンピックも変わったよな。自由な雰囲気でさ。いまはなんか入場行進なんかでも自由に笑いながら入ってくるじゃん。俺たちの時代は、ビシッと列を乱さぬ行進で「かしら〜右!」よ。

――一糸乱れぬ軍隊スタイルの行進なんですね(笑)。

マサ そうそう、帽子とって軍隊スタイル。いまはバラバラ歩いてるけど、あの頃は列を乱すことは許されなかったからね。「もし帽子を落としても、絶対に拾うな。そのまま行進しろ」って何度も言われてたから。そういう帽子を落としたら列の一番後ろで拾う係とかもいたからね」

「マサ そう。俺たちは国を代表して、国のお金でオリンピックに行かせてもらってるわけだからね。だから最近の選手がよく言うじゃん。「オリンピックをエンジョイしたい」とか「楽しみたい」とか、あんな言葉が出てくること自体、俺は理解できない。

――ああ、オリンピックは楽しみに行く場所じゃない、と。

マサ オリンピックは国を代表して勝ちにいく場所でしょ? これから闘いに行くのに、楽しくやるの? 楽しく勝てたらいいけど、楽しんで負けてたらしょうがないじゃん。

――確かにそうですね。

マサ おそらく欧米人が使う「エンジョイ」って言葉をそのままはき違えてるんだろうな。連中はとにかく勝つためにはなんでもやる、勝利至上主義なんだよ。その裏返しでエンジョイって言葉を使ってるのに、日本の選手はそれをわかってないのがけっこういるんじゃないの?」

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GO FOR BROKE(当たって砕けろ)




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俳優の息子として生を受け、子役デビューして俳優として活躍。
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13才から18才で渡米するまでウインチャンクンフーを学んだ。
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アメリカでも俳優としての道を探りながら活動。脚本や武術指導を手掛け、 TVドラマの脇役などを務める。

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その中で人種差別という大きな壁に立ち塞がれる。

リーの脚本、主演で進めていた作品も、土壇場で主演から外されてしまう。代役はアメリカ人俳優だった。

アジア人はハリウッドで主役になれない。

失意のうちに香港に帰国。

すると空港で大歓迎を受ける。アメリカで脇役として出演した TVシリーズ「グリーンホーネット」が香港で大ヒット、一大ブームを巻き起こしていた。

再び俳優としての扉が開いた。

「ドラゴン危機一髪」「ドラゴン怒りの鉄拳」「ドラゴンへの道」に主演し、立て続けに大ヒット。香港で大スターのポジションを獲得した。

そこへハリウッドから声がかかり待望の主演「燃えよドラゴン」へと至る。

「燃えよドラゴン」は世界中で大ヒット。ブルースリーは空前のブームとなった。

ところがリー本人は「燃えよドラゴン」世界公開一ヶ月前に急逝。32年の人生を駆け抜けた。

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リーは子役の頃から、人生の大半を役者として過ごし、どうやったらスクリーンに映えるのかを研究、熟知していた。それは武術や哲学のセルフプロデュースにも生かされた。

こうしてブルースリーはアジア人として初の世界的アクションスターとなった。当時はカースタントやガンファイトを抜きに成立しないと言われていたアクション映画を徒手空拳で成立させたのも業界初。

いまだブルースリーを超えるアクションスターはいないし、ハリウッドで主役を張れるアジア人俳優も存在しない。

まさにブルースリーの前にブルースリーなく、ブルースリーのあとにブルースリーはいない。

唯一無二の圧倒的存在なのだ。

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さて、いまや神格化されつつあるブルースリーだが、武術家としての評価は、世界最強レベルとは考えにくい。ウインチャンクンフーを6年修練したリーより高い技量の中国武術家はたくさんいるとみるのが妥当だろう。

実際、ブルースリーはアメリカ空手界の雄エドパーカーをはじめ、時の空手世界王者チャックノリスやジョールイスらに指導していたが、専ら映画アクション用の指導だったようだ。

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ほかの著名人も同じ流れで、かなりの高額(一時間150ドル(いまの換算だと11万円位))でハリウッドセレブたちのパーソナルレッスンをしていた。当初はリーズナブルな料金設定(それでも一時間2万円弱)だったのを、ターゲットをハリウッドセレブに絞ったマーケティングを映画関係者からアドバイスされて変更したらしい。

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いまもフィルムが残る国際大会でのデモンストレーションは、大会そのものがハリウッド映画業界へのプロモーションとして開催されたようだ。

とはいえ、武術家としての矜恃はスクリーン上の独特の間や間合いから感じることができる。

意外だったのはリーの師事したウインチャンクンフーのイップマン師範が喧嘩を奨励していたことだ(笑)。やんちゃだったのは間違いない。

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ウインチャンクンフーを6年学んだのちアメリカに渡り、様々な格闘技からヒントを得て、自らの流派ジークンドーを創設する。

そのスタイルは、

「ブルースリーはボクシングから優れたフットワークを、カンフーから蹴りを取り入れた。しかし、彼の技術融合で独特なのは、蹴りとボクシングの融合だけではなく主要な要素をフェンシングから取り入れている点だ」。

実兄がフェンシング香港代表になるほどの腕前であり、インスパイアされたものだろう。

「ジークンドーは「剣を持たないフェンシング」」

さきの国際大会でのデモンストレーションでのスパーリングにも見受けられる。


「頭を打つか目を突くかの選択に迫られたら、毎回目を選ぶ」

ブルースリーは映画の中で目を突いたりしていない。実際の格闘とエンターテインメントとしてのアクションの違いを示している。


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ブルースリーは映画俳優だったが、私たちの世代でブルースリーに影響を受けていない武術格闘家を探すのは世界中でも難しいだろう。

地味でエンターテインメント性低いマーシャルアーツを世に広げた功績は大きい。


ここでも唯一無二なのだ!!!

ブルース・リー伝
マシュー・ポリー






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