カテゴリ : 日記
身体は全体で一つ。代償動作について

右膝痛の考察(備忘録)
この一週間、原因不明の右膝痛。
屈伸ができないほどの痛みが出たが、明確に痛めた場面はなかった。
さかのぼると、約一か月前に右肘を負傷。
ヒールフックのポストで痛め、水が溜まった。
そこから身体の連鎖を探っていった結果、
肘と膝の関連性に行き当たる。
推測される連鎖
肘の痛み
→ 上腕三頭筋の緊張
→ 広背筋・前鋸筋の緊張
→ 外腹斜筋の緊張
→ 大腿骨の内旋
→ 足先を真っ直ぐ振り出そうとする代償
→ 膝に捻れが発生
→ 痛み
身体は部分ではなく、常に全体で一つ。
さらに、膝のケアとして大腿四頭筋をエクササイズ中、
ハムストリングの伸展にブレーキがかかる感覚も確認。
この前後の緊張バランスの乱れが、
今回の膝痛の要因と考えられる。
代償動作の怖さと、連動の精密さをあらためて実感。
ピラティスのおかげでモニターしやすくなってるのだ^_^
規則性を紐解く
整う/ピラティスクラス
スパイダーガード
稀代の革命児、嘉納治五郎

「当時少年の間では、とかく強いものが跋扈して、弱いものはつねにその下風に立たなければならない勢いであったので、これには残念ながらつねにおくれをとった。
自分は今でこそ普通以上の強健な身体を持ってはいるが、その当時は、病身というのではなかったがきわめて虚弱なからだであって、肉体的にはたいていの人に劣っていた」
「日本に柔術というものがあり、それはたとえ非力なものでも大力に勝てる方法であるときいていたので、ぜひこの柔術を学ぼうと考えた」
「かつては非常な癇癪持て、容易に激するたちであったが柔術のため身体の健康の増進するにつれて、精神状態も次第に落ちついてきて自制的精神の力が著しく強くなって来たことを自覚するに至った。
また柔術の勝負の理屈が幾多の社会の他のことがらに応用の出来るものであるを感じた。
さらに、勝負の練習に附随する知的練習は何事にも応用し得る一種の貴重なる知力の練習なることを感ずるに至った。
もとより方法としては、在来教えられきたった方法そのままでよいとは思わないが相当の工夫を加うるにおいては武術としてのほかに、知育・体育・徳育として誠に貴重なるもののあることを考うるに至った」
「本来、柔術という名称そのものからやめたかったのだが先師からこの名によって教えられた技術がもととなって今日をなしたのであるから名までも全然変更するのも本意でないと考え、柔の一字を残し、「柔道」としたのである」
「我が教うる柔道は、在来の柔術とくらべて一段と相違せるものを授けたのである。故に、この柔道を教授する教育所を講道館と命名した。
そのわけは、決して単なる武術を教うる場所ではないということを明らかにするためである。
もし単に武術の道場というならば、練武館、講武館、または尚武館などといったであろうことさらにこれを避けで講道館といったのは、道は根本で術はその応用として授けることを明らかにするの意である」
「白井は住々「かのー」といって打ちかかってくる。この時自分は、機にこれをすかしながら、親しげに抱きつくようにして、じっと押さえつけて動かさない」「これは単に一つの例にすぎないが、親しんで抱きつくようにして押えつけるということは、多くの他のことにも応用されることと信ずる」
「そのうちの一つは、いかに弟子を得るに苦しんだかということである。第一、自分は柔道師範として相当に自信は持っていたが、世間から見れば弱年の一文学士である。柔術のもっともすたっている時代において、まだ世に名もない弱年の文学士のところに柔術を学びにこないのは当然のことである。たまたま来た人をばこれを大事に待遇して、あきさせずに継続せしめることがもっとも必要なことであった」
「これは全く、自分が相手の身体を崩すことを研究して自得した結果であったのだ。
これまでも、なるほど崩しもした、また相手の動きを見ることに苦心もしたが、崩すということに特に集中して、まず崩してしかるのち、技をかけること、これを徹頭徹尾実行したのである。
他日講道館において、六方の崩し、或いは八方の崩しということを教えたが、この研究からである。その時の研究は、人の身体は、押すか引くかすれば必ず崩れるものであるということである。
何心なく、ふと立っておるものは、その人が如何に体力のあるものでも、前から押せば後に傾き、またこれを引けば前に傾く、即ち崩れる。もし相手が体力があるものでも、こちらの押すのを押しかえせば、後には崩れない。また、引くとき引き返せば、前には崩れない。しかし、いかに体力のあるものでも、自分に引こうとするときに、こちらから押せば、後に必ずよろける。こちらを先方が押すとき、こちらが引けば、前によろつくことは間違のないことである。
そこで原則は、引くか押すかを巧みにすれば、引く作用または押す作用によって、相手の安定を奪い、必ず動揺さすことが出来る。わざは相手の身体が安定をかきたるときにかかるものであるということである」
「今日柔道の稽古の仕方が崩れてきたのには二つの理由がある。
即ちその一つとして、柔道奨励のためには勝負を争わしめるが便法であるが故に、月次勝負或いは紅白勝負等を行なって、修行者を励ましたということをあげねばならぬ。もとより勝負をさすには或る規定のもとに審判をせねばならぬ。いつも師範が審判をする訳にもいかない。またかりに自分が審判するにしたところが、或る簡単なる箇条によって勝負をきめるようにせねば、勝ち負けをはっきりとわからすことが出来ない。ましてや師範以外の種々の人が審判する際には、あまり複雑でない、簡明なる規則にしたがうようにしなければならぬのである。
そういう規定によって勝負を決するということになると、自然その規定になじむの弊として、勢い理想的の身体の姿勢とか、こなしとかいうことに遠ざかってくる原因をなすに至るのである。
第二の理由として、急に柔道が普及して、多数の人が稲古をするようになったがため、善い正しい方法で乱取を教える資格を有するものが矢乏したということを挙げ得る。この指導者乏のため、結局、修行者中本当の方法をならわず、互いに採じくり合いをする場合が生じ、講道館創設当初の乱取の仕方が十分に伝わらずに、力と力とねじあい、本当の方法にかなわない乱取がふえて来たのである」
「どんな身体をもってよい身体とするか。首の前の方へ出して、前こごみになった姿勢で始終全身に力をいれているのは、もちろん理想的の姿勢ではない。
立つときは自然的に立ち、ふだんに、からだに力を入れず、必要に応じて首・四肢・胴いずれでも敏捷にかつ自在に力をいれ、意志の命令に応じて、種々の調和した運動が即時に出来るというのが、体育上の理想である。
また武術からいうても、いつ相手が蹴ってきても、突いてきても、体をかわすことも出来、身体が自由にかつ軽快・敏捷に働くということでなければならぬ。
講道館では、乱取をする際、襟をつかみ袖を捕えて稽古をするが、これは初心者を導くに必要なので、これを最後まで用うべき形というのではない。
仮りに袖を捕り襟を握っても、きわめて軽く握り、これに力を入れてはいかぬ。しからざれば、急速に身体をかわすことが出来ない。
以上の注意に着眼して稽古をするならば、立っている場合に、今日在々にして見るがごとき、むやみの力を入れて、ねじくり合うということがなくなって、ボクシングをやるものの姿勢などに類した一種の姿勢が、乱取の姿勢になり得るのである。
西洋の角力の姿勢は、先方で当て身をせぬということがあらかじめ決まっているから、あのような姿勢をするけれども、もしも当て身を予期するならばボクシングのようにせねばならぬはずである。
柔道は突くばかりでなく、投げもする、また逆もとるから、ボクシングのように、つねに離れていなければならぬのではない。或いは接近して着物をつかみ、手を捕え、または首をとらえる。
この場合はおいても、相手が突いて来たり、蹴ってきたときに応じ得る身構えして接近せねばならぬ。
その接近するに当たり、どういう風に接近するかというに、或いは相手の右の手首なり袖なりを引張る。自分は相手の右側に身を進める。すると、向うの右手は取られているから攻撃は出来ない。左手は自由であるが距離が遠いから危険が少ない。左の足も同様である。また右の足は接近しすぎて攻撃に不便である。
こういう工合に考えて接近しなければならないのである。むやみに接近してはならない。
そこで、体育として、武術として、有効なる乱取の仕方はどうかということになると、結局、講道館創設当時の乱取の仕方にかえらねばならぬということになるのである」
細部の中にブレイクスルーやマドルスルーのヒントがある^ ^
オーラの正体はミラーニューロン?!^ ^


【オーラの正体はミラーニューロン?!】
以下ChatGPT代筆(笑)↓
「スターは「オーラ」を発している。
もちろんそれは、超常的なものではない。
目に見えないが、確かに感じる存在感であり、
場の空気を一瞬で変えてしまう力だ。

それはスポットライトを浴びているからではない。
むしろ逆で、その人が立った瞬間に、場がスポットライトになる。
だから人は、思わず「オーラ」と呼んでしまう。

これは、やっぱりリアルでしか起きない現象だ。
どれだけ映像が高精細になっても、
どれだけAIが言葉を洗練させても、
その場に漂う空気感までは完全に再現できない。
AI時代だからこそ、はっきりしてきた。
人は理屈だけで動いていない。
人は、言葉より先に、五感で感じている。
視線、呼吸、姿勢、間、沈黙。
そうした情報を、私たちの身体は無意識に拾い上げる。
その中核にあるのが、ミラーニューロンだ。
ミラーニューロンは共感するための装置ではない。
相手を評価するためのものでもない。
ただ、目の前の存在を、身体で写し取ってしまう。
だから、整った人の前では、こちらも整う。
落ち着いた人が立つと、場が静まる。
スターが現れると、何もしていないのに空気が変わる。
それが、人が「オーラ」と呼ぶものの正体だ。
超能力ではない。
演出でもない。
身体が身体に反応しているだけ。
そしてそれは、
AIがどれだけ進化しても、
最終的に人が人に惹かれる理由として、
消えることはない。

スター性とは、
人の五感に、静かに、しかし確実に届く
存在そのものの力なのだ」
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私の原案を洗練させてくれました(笑)。











