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「秘伝日本柔術」より

「昭和初年、惣角のすすめにより札幌市円山に大東流合気柔術指南の道場を開く。この頃に北大ラクビー部の者で、後に日東化学(釧路)工務部長となった飯田毅氏が、当時柔道部の選手と道場破りの意気込みで、佐川師範の道場に押しかけたが、逆に佐川師範よりさんざんな目に合わせられた思い出を、日東化学厚生会機関紙『こころ』(昭和三十一年六月五日号)でつぎのようにのべている。

「(前略)筆者が佐川先生の門に入ったのは北大の学生の時であるが、当時の北大予科は柔道の全盛時代で、筆者が予科三年の時には全国高専大会に優勝し強豪が揃っていた。

小生は柔道はせずラグビーの選手であったが、運動部並びに家の関係で柔道部の選手と親しく、その連中とも一緒に佐川先生の所に行ったが、柔道の猛者達も素人の小生と全く同じで、合気にかかっては赤子のように操られひねられてしまう。

剣にしても同様、剣道の高段者がきさら踊りをさせられ、昔宮本武蔵が塚原ト伝に鍋の蓋で太刀を押えられて、身動きできないのを実地に見るようであった。

講道館の三船十段が「押さば廻れ」は柔道の極意であるとかいわれ、又空気投を得意とされているが、あのようなことは合気の理の一部で、合気には空気投以上の絶妙の技が無数にあることは、先程の六法(歌舞伎の勧進帳にて弁慶が六法を踏み、両手を開いて舞い進み、敵を前後左右へ投げる所作)の例の如きでも理解できよう。

只、学ぶ順序として、逆手から入ることが多いので、大東流又は合気というと逆技専門と思う人が多く(小生も入問当時はさように考えた)また、当身だとかあるいは投技だとかと判ったような顔をする者があるが、いずれも群盲巨象を撫でる類で、合気の行理は過に幽玄なものである。(後略)」