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「野村でさえ首を傾げてしまうバットマンが二人だけいた。

落合とイチローである。どんな打者にも必ずあるはずのデータ上の死角がなかったのだ。

リーグの異なるイチローは日本シリーズのみの対戦で済んだが、落合は一九九三年まで中日の四番打者であり、九四年からは巨人の主砲であったため、同じリーグのライバルとして何度も顔を合わせなければならなかった。

野村が説くところの、内角高めから外角低めという対角線の攻めをしても、そこに緩急をつけても、まるで見透かされたように打たれた。 

最終的に川崎と古田敦也のバッテリーがたどり着いたのは、落合の読みを外すことだった。一球ごとに腰の開き具合やステップの幅、そして表情を観察して、そこから落合の心理を探ろうとした。ただ、落合はそれすらも許さなかった。 

狙ったところにきっちりと投げれば投げるほどポーンと打ち返された。抑えることができたのは、スライダーがすっぽ抜けるなど、自分でも予想できないようなボールがいったときだけだった。つまり打ち取ったとしてもそこに根拠を見出すことができなかった。

あの野村が「多少は(打たれても)仕方ないわ」と諦め顔をしていた。川崎には最後までバッター落合の心が読めなかった」

「俺はな、投手ごと、球種ごとに軌道をイメージしていたんだよ。お前(川崎憲次郎)にはお前の軌道がある。だからそこから外れたボールは打てねえんだ」



「落合の世界に踏み入って感じたのは、その理というのはほとんどの場合、常識の反対側にあるということだった。

あるとき、和田がスピードボールを打つためにスイング動作を小さくしたことがあった。ピッチャーが一五〇キロのストレートを投げてからホームベースに到達するまではわずか〇・四秒である。その刹那に少しでもバットを間に合わせようというつもりだったのだが、落合は首を横に振った。

 「それじゃあ、逆に打てなくなる」  

落合はむしろ、大きくゆったり振れと言った。半信半疑でそうしてみると、不思議とバットが間に合った。

 「その方がボールを長く見ていられるだろ」と落合は頷いた。  

大きく振ろうとすれば、バッターは自然と早めに予備動作のバックスイングを始める。投手のモーションに合わせて動きながら、リリースされるボールを見ることができる。同じ〇・四秒がいつもよりも長く感じられるのだ。すると、どれだけ速い球に対してもタイミングを合わせることができた。ストライクか、ボールかを見極める間も生まれた。

 「この世界に年齢は関係ない」
 「チームのことなんて考えなくていい。自分の数字を上げることだけを考えろ」 

落合が発した言葉の意味が腑に落ちた。 

おそらく落合は常識を疑うことによって、ひとつひとつ理を手に入れてきた。そのためには全体にとらわれず、個であり続けなければならなかったのだ」



「よくファンのために野球をやるっていう選手がいるだろう?あれは建前だ。

自分がクビになりそうだったら、そんなこと言えるか?

みんな突きつめれば自分のために、家族のために野球をやってるんだ。そうやって必死になって戦って勝つ姿を、お客さんは見て喜ぶんだ。

俺は建前は言わない。建前を言うのは政治家に任せておけばいいんだ」



「「心は技術で補える。心が弱いのは、技術が足りないからだ」 

落合が求めたのは日によって浮き沈みする感情的なプレーではなく、闘志や気迫という曖昧なものでもなく、いつどんな状況でも揺るがない技術だった。

心を理由に、その追求から逃げることを許さなかった。

就任以来、落合が選手に禁じていたことがあった。ヘッドスライディングだ。とりわけ本塁へのヘッドスライディングは故障のリスクが高いため、固く禁止されていた。

 「どんなことがあっても頭から飛び込むな。レギュラーっていうのはな、一年間すべての試合に出なくちゃならないんだ。もし飛び込んで怪我したら、お前責任取れるか? 勝敗の責任は俺が取る。お前たちは、自分の給料の責任を取るんだ」」



「荒木にも他のどの選手に対しても、落合は「頑張れ」とも「期待している」とも言わなかった。怒鳴ることも手を上げることもなかった。怪我をした選手に「大丈夫か?」とも言わなかった。技術的に認めた者をグラウンドに送り出し、認めていない者のユニホームを脱がせる。

それだけだった」



「荒木はアンツーカーの土がついた自分のユニホームを見て、身を固くした。その汚れは落合に禁じられたヘッドスライディングによるものだったからだ。

後から考えれば危険なプレーだった。ひとつ間違えば明日からゲームに出られなくなるかもしれなかった。そんなリスクを冒した自分に、落合は何と言うだろうか……。荒木は恐る恐る指揮官の眼を見た。

すると落合は右手を差し伸べて、こう言った。 

「大丈夫か──」 

荒木は、落合が選手にそんな言葉をかけたのを初めて聞いた」