「ついでかれは(仏陀)、苦行をこころみた。
どういうわけか、われわれはたいてい、肉体の欲求を抑えれば、心は浄化されて、真理があるがままに見えるようになると考えている。
しかし禁欲は、自己すなわち真理を問う者を、敵のごとくに遇する。
敵は打ちまかし、粉砕しなければならぬものである。そしてその敵は、いつも問う者の前に立っている。
問う者がこの死闘にいかに必死の力を傾けようとも、敵はけっして克服されない。けだし、自己すなわち問う者が生きているかぎり、かれは新たな敵をつくり、それと戦わなければならぬからである。
その敵をたおすことは、自己を救うことにも、また問いに答えることにもならない。
自己は非自己があってはじめてあり得るが、その非自己が敵なのである。自己が敵の創作者である。(中略)
禁欲の修行においては、問う者は自己である。そこでは、自己は自己ならぬもの、すなわち敵と対峙せしめられる。(中略)
自己はけっして、ただひとりあることはない。それはつねに自己を主張し、その力をためし、おのれがいかに重要なものであるかを示す相手を欲する。
自己は、おのれを誇示すべき他の自己が存しない時には、その自己性を喪失する。
禁欲主義は、一種の自負あるいは自己主張のあらわれである。(中略)
かれは、肉体が自己を主張し得ないほどその力を弱めようと、最小限度のものしか口にしなかったのである。目的は達せられた。身体はひどく衰弱して、もはやおのれを支え得なかった。
しかし、実在と真理の問題は、依然として未解決のままであった。
肉体を苦しめることは解決に到る道ではなかった」(by鈴木大拙)


鍛えるとは基本的に自分の身体を痛めつけることである。克服されればその強度も増していく傾向にある。
自らを敵にして、さらに新たな敵を作り続けることなる。

日々の鍛練はノルマ的で結構嫌々ながらやっているところがあった。いつの間にか自分自身との勝負になってしまっていて、またそれに勝利することで安寧を得ようとしていたのであれば、本末転倒だったといえるのかもしれない。

自負も自己主張もいらないよね。そもそも敵が存在しなければやらないなんておかしい。あげく自分自身を敵にしてどうする?(笑)。素直をやらないと。