「中古には、剣術修業といえば、どの流派でもみな素面で木刀によっておこなっていたのである。しかし、いまから百年ほど前になって、諸流派ははじめて面具や半首、小手、胴を使うようになった」
「防具を使えば体を練り、業を励むことができ、相手を十分に打ち込める利点がある」
「素面で木刀による試合では事情が異なっており、でたらめに進んでゆけば自分の身体が傷つく恐れがあるばかりか、敵の刀勢や身体に触れようとすれば、どんな者にも届いてしまう」
「どうして面小手試合はただ勝負だけを争うのだ。優勝劣敗は当然のことであり、(面小手などを使わなくても)上達した者にはほとんど危険がないことぐらいははっきりしたことではないか」
「面小手の試合による数年の修業経験者は、敵の気合というものを知っている」
「血気の修業者が腕力の拍子だけで、(素面木刀の試合の)勝負を争うとき、面小手試合をしているようなでたらめな気分で敵に向かえば、たちまち負傷するのである。このことをよく考え、工夫して試合をすれば、負傷の心配はないといえる」
「素面木刀の試合で相手を殺してしまったり、負傷させたりするような人間は、とうてい剣法の真理を修業するものではないのである」(by山岡鉄舟)
掛け試し稽古会のおかげで意味するところをはじめて理解できたかも(^^;。
http://diary.nbjc.jp/archives/1318343.html
もし、真剣や木刀で試合するなら間合いを制して絶対で入らなければ、勝負は一か八かになってしまう。コンビネーションで入るわけにはいかない。一方で、間合いに構わず、相討ち覚悟でがむしゃらに突っ込まれても応じることはできない。そんな時は謝って逃げればいい。命は大切な時が来るまで取っておこう。