バーリトゥード日記

バーリトゥード日記

ジェントルアーツ名古屋ブラジリアン柔術クラブ(NBJC)代表早川正城の日記です。
(題字:一ノ瀬芳翠)

2014年05月

炭水化物の摂取をコントロールしている。体内の糖質が減ると水分も減るため一時的に体重が落ちている。

朝、鍛練に鍛えるメニューを徐々に復活させている。
夜、ファイトクラブのジムでほんの少しだけ、ベンチ、デッド、チンニング。
これも一時的低血糖状態なんだろう、身体がだるい。
暑さも加わってスパーリング途中でバテる。心拍数を上げることもぼちぼちとやっていきたいのでそのまま最後まで。

体重の落ち方、運動量を見つつ食事を調整していく。そして、失敗を繰り返してきたウエイトトレーニングも軽い重量から運動との因果関係を探っていきたい。

35f9b368.jpg本日、ナゴヤファイトクラブの藤澤さんを黒帯に認定させていただきました。

柔術を志す者にとって黒帯は一つの到達点。そして、ここからが真のスタート。

藤澤さんは私と同い年で今年50才になります。

50の人間をつかまえて「ここからが真のスタートだぜ」と言うのはちょっぴり可笑しかったけど(笑)、何事もはじめるのに遅すぎることはないわけで、一層の飛躍を期待しています!!!
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44ce0b11.jpg※写真下二枚はまちゅいから拝借。

I師匠と推手、散手の練習をしていて、某柔道家の教則Vがわかりやすくなった。種目は違えど、コントロールの対象は同じ人間なので共通点がありますね〜(^^)b

あらためて某柔道家を上手いと思った次第。

暑くなってきて練習でもかなりの汗。食事のコントロールも一段階アップ。じっくりと身体を作っていこう。

体重がなかなか落ちてこないね。わりと食事もコントロールしているつもりだが、以前のようにいかない。基礎代謝が落ちてきたのだろうか。さらに食事を見直しなのだ。

「ついでかれは(仏陀)、苦行をこころみた。
どういうわけか、われわれはたいてい、肉体の欲求を抑えれば、心は浄化されて、真理があるがままに見えるようになると考えている。
しかし禁欲は、自己すなわち真理を問う者を、敵のごとくに遇する。
敵は打ちまかし、粉砕しなければならぬものである。そしてその敵は、いつも問う者の前に立っている。
問う者がこの死闘にいかに必死の力を傾けようとも、敵はけっして克服されない。けだし、自己すなわち問う者が生きているかぎり、かれは新たな敵をつくり、それと戦わなければならぬからである。
その敵をたおすことは、自己を救うことにも、また問いに答えることにもならない。
自己は非自己があってはじめてあり得るが、その非自己が敵なのである。自己が敵の創作者である。(中略)
禁欲の修行においては、問う者は自己である。そこでは、自己は自己ならぬもの、すなわち敵と対峙せしめられる。(中略)
自己はけっして、ただひとりあることはない。それはつねに自己を主張し、その力をためし、おのれがいかに重要なものであるかを示す相手を欲する。
自己は、おのれを誇示すべき他の自己が存しない時には、その自己性を喪失する。
禁欲主義は、一種の自負あるいは自己主張のあらわれである。(中略)
かれは、肉体が自己を主張し得ないほどその力を弱めようと、最小限度のものしか口にしなかったのである。目的は達せられた。身体はひどく衰弱して、もはやおのれを支え得なかった。
しかし、実在と真理の問題は、依然として未解決のままであった。
肉体を苦しめることは解決に到る道ではなかった」(by鈴木大拙)


鍛えるとは基本的に自分の身体を痛めつけることである。克服されればその強度も増していく傾向にある。
自らを敵にして、さらに新たな敵を作り続けることなる。

日々の鍛練はノルマ的で結構嫌々ながらやっているところがあった。いつの間にか自分自身との勝負になってしまっていて、またそれに勝利することで安寧を得ようとしていたのであれば、本末転倒だったといえるのかもしれない。

自負も自己主張もいらないよね。そもそも敵が存在しなければやらないなんておかしい。あげく自分自身を敵にしてどうする?(笑)。素直をやらないと。

スポーツ競技選手はすべからくアスリートであるべきだろう。でもその種目はアスリートしかできないわけではない。

走るにしてもオリンピックを目指すトップランナーもいれば、健康や趣味で走るジョガーもいる。

柔術だって同じ。アスリートしかやってはならないなんてことはないのだ(笑)。

また、武術は術理だと思っているが、同じくアスリートが武術をやってはならないこともないだろう(笑)。

9b2283ce.jpg自叙伝の映画化。私はその原作を読みたいのだが、絶版になっている。復刻希望。

本作は大統領就任までを描いている。その続きにあたる「インビクタス」をいまから観ようと思う♪

f92ba098.jpg「僕は、サイクルロードレースを仕事にしている。

日本ではマイナーだが、ヨーロッパではサッカーやテニスと並ぶ地位にあるこのスポーツは、ちょっと残酷な競技だ。

200人近くが出走するのに、勝てるのは一人だけ。サッカーなら勝率は50%なのに、ロードレースじゃ0.5%しかない。200分の1。
たった一勝もできずに引退していく選手すら珍しらしくない。

若い頃の僕はずっと、0.5%になろうとして走ってきた。そのためには残りの99.5%を蹴落とさなければいけない。そう思っていたし、実際、そう振る舞っていた。

日本のレースで勝つたびに、僕の敵は増えた。
けれど、このスポーツは僕に、別の価値観を示してくれた。それは、他人のために働くということ。僕がヨーロッパで走った8年間で得たものは、アシストの喜びだ(中略)
戦略を立てて、その通りにレースを動かす。
狙い通りにいっても、勝つのは僕ではなくエースだ。でもエースの勝利は僕の勝利でもある。今の僕は、計画を立てて人の背中を押すことに喜びを感じる。

しかし、僕がその楽しみを知るまでには、長い時間がかかった」

「アスリートは囚人みたいなものだ。すべてにおいて制約だらけ」

「サイクリストは苦しむのが仕事なんだよ」

サイクルロードレースの本場ヨーロッパのレベルの高さに圧倒され、もがく著者。

「僕はツール(ド・フランス)を走ることがどれだけ凄いか理解していなかった。
たがら、ツールを目標にできたのかもしれない」

本書ではスポーツ界のダークサイド、ドーピングについても赤裸々に語られている。

「悪いヤツがズルをするためにドーピングに手を出す。それが日本でのドーピングへのイメージだと思う。でも、現実はそんなに簡単じゃない。(中略)
要するに、やらないと勝てない環境があるから、やる。それだけだ」

さらに八百長まで言及。そのくだりがユニーク(笑)。勝つためにやれることは全部やり尽くす。不正と一言では片付けられない勝負に対する厳しい姿勢を感じさせる。

彼らにとってはレースが仕事なのだ。勧善懲悪ではない、問題の本質はどこにあるのか、傾聴に値する意見だと思う。

光があれば陰もできる。綺麗事ではない現実。それを恋人になぞらえて深く愛するとはどういうことかと問いかけている。

これらすべてを乗り越えてスポーツの良さを感じられる一冊。

私はアスリートではないが、アスリートが好きだし、リスペクトしている(^^)b

敗北のない競技:僕の見たサイクルロードレース

敗北のない競技:僕の見たサイクルロードレース


著 者:土井 雪広


販売元:東京書籍

発売日:2014-04-18

ある武術の入門風景をTVで紹介していた。その入門書には血判がなされる。決意の固さの顕れ。

思えば朱肉も赤なので血判の名残かと調べてみたが、違うようだ。

血判は血判。古き時代に武術が要求される厳しさを感じた。

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