新しい技の練習や研究をする時、もっともシンプルなシチュエーションではじめています。
技の行使に、現実には無数にある相手の反応や抵抗をクリアしなければならず、最初からすべてをクリアすることは難しすぎるからです。
ですから限定条件を数多く設定して行います。
哲学者は極端な条件設定の中から真理を見いだしたりしますが、これ、術理研究をしていて気がついたコツ。
そして上達するにつれ、限定条件を少なくしていきます。
打ち込みや一本組手に比べ、スパーリングや自由組手は限定条件が少なくなります。
ところが、それでもやはり限定条件があります。空手は組み付かないとか柔術は当て身など禁じ手(ルール等)が存在するのです。
よくよく考えるてみると禁じ手そのものが限定条件といえなくもありません。
そして相手が「一人」で「素手」でなども限定条件といえるでしょう。現代ではこれに「刃物」とか「銃」も加わってくるでしょう。
現実的にはこれらすべてに対処するのは困難を極めますが、約束事をなくして、限定条件をどれだけ少なくできるかを追求するのが現代における実戦面での「武術的」な姿勢かもしれませんね。
大東流の達人佐川幸義師範は相手が使用してくるかもしれない「気合術」や「催眠術」まで研究していたというから恐れ入ります。
視点を変えるなら「国防」などもまさに武術的であり、相手がやってきそうなことをすべて想定した上で、仕掛けさせないように「外交」や「政策」でコントロールしています。

もちろん、武術に心法的価値や文化的価値があるのはいうまでもありません。